学力の壁を超えろ!おもしろ明治の人で面白く明治を学ぼう選手権!

  • まえがき

この記事では、2021年11月10日放送の「有吉の壁」の「おもしろ明治の人選手権」に基づいて解説を行う。今回は、なぜか明治時代の出来事・偉人に基づいたネタが「おもしろ江戸の人選手権」より格段に多かったのである。

本来、コメディに対する解説は無粋であり、私も重々承知はしているが、一人でも多く、二月の勝者になってほしいという願いから解説に踏み切らせていただいた。有吉の壁は11月17日はほうそうがないので、おもしろ明治の人の回の配信は11月24日まで。それまで、有吉の壁を学習漫画としてみるもよし。記事を読んで知識を入れてから2周目突入するもよし、である。

あ、そうそう。事前に言っておくと、ペーパー・ハウスとイカゲームの解説はないのでご了承ください。俺も知らねえもん。

 

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長い髭がトレードマーク。自由民権運動」という運動を行い、最終的に帝国議会の開設に成功した。帝国議会開設以前の明治政府は、政治に関わる者を天皇陛下ら朝廷が決めており、明治維新の功労者である薩長土肥*1の出身者に偏っていた。自身も土佐藩出身でありながら、この藩閥政治の体制を改善しようとしたのが自由民権運動であり、そのリーダーの一人が板垣退助である。1882年に岐阜での講演会で襲撃された際に、「板垣死すとも自由は死せず」という言葉を残したことでも有名。

 

 

  • ペリー

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1853年浦賀に来航。当時「オランダ、清*2、朝鮮」の3つの国としか国交を持たない「鎖国」状態だった日本を「開国」するためにやってきた。「泰平の眠りをさます上喜撰たった四盃で夜も寝られず」という狂歌*3にある通り、当時の民衆は驚いていたが、江戸幕府としては、オランダからの情報でペリー来航自体は知っていたとされている。

しかし、ペリーの巨大な船や、ピストルやカメラなどの技術力を見せつけられたため、しぶしぶではあったが、1854年日米和親条約」を結び、江戸幕府は200年近く続いた強硬な鎖国状態を解いた。

 

  • 緋村抜刀斎

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なぜか2度も登場したが、るろうに剣心」の登場人物であって実在しない。
実在しないのだが、河上彦斎」というモデルは存在するという。

熊本藩士の尊王攘夷派(後述)であり、平気で衝動的に人を斬り殺せることから、「人斬り4人衆」と言われており、最終的に明治政府から危険分子扱いされて、明治2年に死刑となっている。

 

 

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明治時代の文豪。旧1000円札の人として有名で、なぜか有吉の壁では「野口英世」よりも千円札の人扱いされていた。

代表作は、猫を一人称にした小説吾輩は猫である、無鉄砲な少年が愛媛で教師になるという一生を描いた長編小説坊っちゃん、人間の葛藤が描かれ、鬱エンド小説として知られるこゝろがある。

 

 

 

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明治時代の思想家。2004年に1000円札が夏目漱石から野口英世になった紙幣一新でも、変わらず「一万円札の人」を続投した人物でもある。

代表作の「学問のすゝめ」は、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず、人の下に人を造らず」という言葉に代表されるように、人々が身分などによらず、平等に学問を受けることのできる社会が理想である、ということを書いたものであり、面白いとか面白くないとかそういうことではない。

また、「学問のすゝめ」の言葉通り、慶應義塾大学の創設者としても知られている。

 

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1871年に明治政府が、欧米諸国の様子を見ること、明治維新を伝えること、そして日米修好通商条約の改正(後述)のために派遣した岩倉使節団のリーダー。「最後の五百円札の人」でもある。

周りがスーツでありながら、一人だけちょんまげ+和服の写真が印象的で、有吉の壁の「おもしろ江戸の人選手権」ではフルメンバー*4のパターンも披露された。この理由は、「岩倉具視が日本文化に誇りを持っていたから」だが道中で周囲の説得を受け、シカゴにて断髪したという。

岩倉使節団およびその報告を受けた明治政府は、欧米諸国の様子に相当驚き、「日米修好通商条約の改正を含めた欧米諸国との国交は、相当な一新をしなくてはいけない」と危機感を持った。この危機感が明治維新の原動力となったのである。

 

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明治時代の音楽家。いわゆる和楽器ではなくピアノを用いた西洋音楽の黎明期を支えた人物。代表作は「荒城の月」などだが、「お正月」「雪やこんこん」「鳩ぽっぽ」などの童謡を「幼稚園唱歌」として発表したことでも知られている。

24歳のときに結核で死亡、34曲を発表した。

 

 

  • バッハ

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(1685-1750)の音楽家日本ではめちゃくちゃ江戸時代にあたる時期を生きていた人物。ただし、滝廉太郎が影響を受けた「西洋音楽」の基礎を構築した音楽家として知られているので、登場は一応理にかなっている。代表作はトッカータとフーガ」で有吉の壁本編でも口ずさんでいる。

 

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キダ・タローの異名。1930年生まれで現在もご存命である。数多くのCMソングの作曲家として知られている。代表作はカニ道楽」で有吉の壁本編でも口ずさんでいる。

 

 

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江戸時代前期の歌人(1644-1694)。面白いかどうか以前に、どう贔屓目に見ても明治の人ではない。

「短歌」の五七五七七から、七七を除いた「俳句」を確立した人物。歌集としての代表作は、奥の細道。これは日本全国を渡り歩いて紀行文および俳句を書いたもので、「五月雨を集めて早し最上川」、「荒海や佐渡に横たう天の川」などの俳句があるほか、「静けさや岩にしみいる蝉の声」という俳句も有名だが、やはり「古池や蛙飛び込む水の音」という俳句が有吉の壁と最も相性が良い*5

 

  • 津田梅子

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岩倉使節団の最年少メンバー(当時6歳)であり、その後もう一度アメリカ留学をし、日本の一般教育を女性へも広め、儒学的な「良妻賢母」像の思想*6を打ち砕き、女性への一般教育・自立を促すことに尽力した人物。

1900年に津田塾大学という女子大を創設したことで有名。

 

 

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薩摩藩(今の鹿児島県)の西郷隆盛と、長州藩(今の山口県)の桂小五郎の話し合いによって結ばれた倒幕のための同盟。

当時の薩摩藩長州藩はともに「倒幕」や「尊王攘夷」(日米修好通商条約の項を参照)を目論む点で考え方が一致していたにもかかわらず、異常なまでの不仲だったため、勝海舟およびその一番弟子の坂本龍馬(土佐藩、今の高知県出身)の粘り強い説得によって、同盟を結ばせた。以下、個々の解説を行う。

 

 

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薩摩藩出身。ゴツい顔の肖像画で知られるが、これは写真嫌いだったために写真が残っていなかったため、親戚を参考にして描いた肖像画である。そして、親戚に「似てない」と言われたエピソードもあるので、もしかしなくても、チョコプラ松尾は西郷隆盛に似ていないといえる。なお、上野駅銅像も、そのゴツい肖像画をもとに作られている。

明治維新後も明治政府と深く関わっていたが、1873年征韓論という、「士族(元武士)の不満を下げるためにも朝鮮を侵略すべき」という説を発表し、明治政府と対立を強めると、明治政府を辞め、1877年には鹿児島に戻って地元の士族とともに大規模な反乱西南戦争」を起こし、戦死した。

 

 

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先述の「薩長同盟の仲介・説得」こそが最大の偉業とされる人物。「日本の夜明けぜよ!」は薩長同盟成立時に倒幕を確信して言ったとされている。明治維新を目前に京都で暗殺されてしまったため、「日本の夜明け」を見ることなくしんでしまったことでも有名。

 

 

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1860年日米修好通商条約(後述)の批准書(条約への同意書)交換に便乗する形で渡米。アメリカ文化に改めて感銘を受け、何らかの形での「維新」が必要であることを痛感する。

西郷隆盛とともに江戸城無血開城*7を幕府に提案・説得したことが最も有名な功績である。

 

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薩長同盟における長州藩側の代表。岩倉使節団のメンバーの一人であり、明治政府にも関わる。西郷隆盛が提案した「征韓論」に対して「内政を優先するべき」と異議を唱えた。また、西南戦争のための出張中に京都で病死し、「西郷よ、いい加減にしないか」と言い残したとされる。なお薩長同盟のときは桂小五郎」ではなく「木戸孝允」だったため、ハナコ岡部の発言は時代考証がおかしくなっている。

 

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明治時代の文豪かつ医師。西洋医学を奨励し、ドイツ留学も行なっている。小説としての代表作は舞姫」「高瀬舟など。

「長女と次女の名前が茉莉(まり)杏奴(あんぬ)」「長男と次男に至っては於菟(おと)不律(ふりつ)」、「潔癖症が度を越して果物を生食できなくなる」「饅頭を4頭分したものを白米の上に乗っけてお茶をかける饅頭茶漬けを好んでいた」など、ぶっ飛んだエピソードが多いことでも知られる。最も子供の名前については、「ドイツ留学のときに自分の名前が発音されにくかったため、発音しやすく世界に通じる名前をつけた」、果物については「細菌学を研究しているうちに潔癖症になった」ときちんとした理由あってのことである。…饅頭茶漬けは………知らん。

 

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1901年に詩集「みだれ髪」を発表した歌人「みだれ髪」には、女性が情熱的な性愛を描いた詩が多数収められており、女性の地位が低い当時としては極めて斬新な表現であった。

また、日露戦争(後述)の際には「君死にたまふことなかれ」という、戦争へ向かった弟への想いを詠んだ詩を発表し、議論を巻き起こす。この詩のために、反戦家として知られているが、政治思想はそれほど反戦ではなかったとされている。

 

 

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Wikipediaによると、当時の作家間で女子主人公が元気をなくす理由が「初潮」か「売春」かで論争が起きたらしい小説「たけくらべ」などを代表作とする小説家。「五千円札の人」としても知られる。

与謝野晶子同様、女性の地位が低い時代でありながら女性作家となったことそのものが珍しく、近代以降では日本初の女流作家とも言われる。

結核のため、24歳の若さで死亡している。

 

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明治時代の細菌学者。「千円札の人」としても有名。当時の日本では、細菌学の第一人者だったといえる。梅毒の病原体を脳や脊髄から発見することで梅毒と脳の麻痺の関連性を証明したことが最大の偉業。何百もの試験管を用いて、根気強く地道に実験を重ねる研究スタイルだったとされる。

また、狂犬病や黄熱病など、他の細菌性感染症も研究を進めていたが、上手くいったものはあまりなく、黄熱病の研究中に、自身が黄熱病に感染して死亡してしまった。

 

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1904年に起きた日本とロシアの戦争。日本はロシアに侵略したかった………のではなく、「清*8へ侵略する」という計画がロシアとかぶっていたために起きた。ロシアは「不凍港」など、冬に寒さが厳しくならない領土・植民地がほしかったのである。

日本は大国ロシアを相手に苦戦し、国民に対しては大増税を行なった。一方、ロシアは戦争中にロシア革命*9を起こされてしまう。両者戦争が困難になった状態で、アメリカの仲裁によってポーツマス条約が結ばれ、終戦となった。

このとき、日本政府が賠償金をもらえなかったことに対し、重税を課された国民は激怒。あんまり褒められなかったどころか「日比谷焼き打ち事件」という暴動を起こされている。

 

 

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ペリー来航4年後の1857年に日本が結んだ条約。名前は「日米」だが、実際にはイギリス、フランス、オランダ、ロシアとも結んでいる。

条約の内容は、日米和親条約の際に開港した下田と函館のみならず、横浜・長崎・新潟・兵庫の開港*10のほか、「日本で罪を犯した外国人を日本の法ではなく、その外国人の祖国の法で裁く」治外法権(領事裁判権)を認めさせ、「産業を守るために輸入品にかける関税の税率を決める」関税自主権を認めさせない、五ヵ国のうちどれか1つの国と有利な約束をしたら残り4ヵ国にも同様な約束をしなくてはならない最恵国待遇」といった不利な内容を日本側のみに認めさせる不平等な内容の条約であるが、当時の欧米諸国の国力と圧倒的な差があった江戸幕府は結ばざるをえなかった。この条約は「不平等条約」とも呼ばれ、江戸幕府はもちろん、倒幕後の明治政府をも苦しめることとなる。

これにより、国民は外国人および開国した幕府への不満が溜まり、天皇陛下に政権を持たせる「尊王」と、外国人を追い払う「攘夷」を合わせた、尊王攘夷運動を起こす。

 

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明治時代の小説家。代表作は羅生門」、「杜子春など。短編小説が多いのが特徴で、「トロッコ」、「魔術」、「蜘蛛の糸なども教科書や問題集に掲載されがちである。

晩年は精神疾患を患い、自室で服毒自殺をしてしまった。

 

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明治時代の詩人・童話作家。童話としての代表作は銀河鉄道の夜」「注文の多い料理店など。詩としての代表作は雨ニモ負ケズなど。

岩手県出身で、「雨ニモ負ケズ」では農民としての厳しい一年を詩にした。岩手県釜石線では「SL銀河」という銀河鉄道の夜をモチーフにした列車が今でも走っている。

 

 

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江戸幕府の倒幕と明治政府の誕生により、政治体制はもちろん人々の文化をも急速に塗り替えられた。これは、岩倉使節団の報告による影響が大きく、欧米諸国のような発展をいち早く得ようとしたためである。「ざんぎり頭をたたいてみれば文明開化の音がする」と言われ、太陰暦太陽暦に変更、肉食やパン食の開始、カステラなどの洋菓子の普及*11蒸気機関車鉄道の開業*12など、多くの動きがあった。ただ、この時期は「古来の日本文化」が最も尊重されなかった時代の1つであり、寺院などを破壊する廃仏毀釈なども行われた。

また、年の途中で太陽暦に切り替えたため年明けが1ヶ月早くなる、鉄道の乗り方がわからず靴を脱いでしまうなど、急速な普及に伴う混乱も少なからずあったとされている。

 

というわけで以上です。私は疲れたので、これからラヴィットを一本くらい見ようと思います。それではさようなら。

(おしまい)

 

 

*1:薩摩、長州、土佐、肥前。それぞれ現在の鹿児島県、山口県高知県佐賀県

*2:現在の中国

*3:簡単に言うと季語がない短歌

*4:あくまで写真上のフルメンバーであり、実際の使節団の人数は107人

*5:八景島シーパラダイス回でも引用された

*6:いわゆる「女は家事をやって男を支えなさい」的な思想

*7:人々が血を流さないよう、人口の多い江戸城周辺での直接的な武力衝突を避けつつ、江戸城を明け渡させること

*8:今の中国

*9:簡単に言うと、ロシアが社会主義ソ連にされちゃうやつ

*10:下田は地理的に近いため、横浜開港と同時に閉港

*11:カステラが現在のようなしっとりとした食感になったのも明治時代

*12:1872年に新橋〜横浜が開通。1867年の大政奉還の5年後である。1874年には大阪〜神戸も開通