AマッソのコラムからAマッソの真意を読んでみる話

どうも、こんばんは、オルソンです。

 

私が好きな芸人のコンビの一組に「Aマッソ」というコンビがいる。Aマッソというコンビは2人とも女性のコンビだ。

女芸人というのは、森三中しかりハリセンボンしかりニッチェしかり渡辺直美しかり、「見た目のインパクト」から売れることが多い。まあ直球で言うと「ブス」ということだわな。先述の芸人はそこをベースにしたネタを持つことが少なくない。が、Aマッソはそこに頼らず(というか、頼れるような見た目でもない)キレた発想から独特なネタを生み出す芸人だ。私は彼女らの「キレた発想」が大好きだ。でも、どうやら「キレた発想のネタ」だけで売れるほどTVのお笑いって甘い世界じゃないらしい。悲しい。

さて、そんな女芸人がブスいじりで売れているのが今のTVの王道となっている中、そういう現状に反感を露わにする者がTwitterにちょこちょこ現れる。女性差別といえばそういう一面は確かにある。「お笑いは元々差別的なもの」として下げてしまえばそれまでであり、こういう主張に屈服するとどんどんTVのお笑いから自由が減っていくのであまり呑まない方がいいのだが…が、もしそういう風潮が強くなった場合、得をする者も現れる。それがAマッソや紺野ぶるまなど「面白いが、ブスでない女芸人」だ。彼女らが、「面白さ」で勝負をしやすい世の中がきっと来る。そして、紺野ぶるまがドカンと売れた暁にはおはようからおやすみまであらゆる番組で彼女があらゆる単語をちんこで謎かけするという誰も傷つけないお笑いTVに流れ続けるという大変クリーンな世界がやって来る。ちんこ謎かけが天下を取る日はもう目前だ。ちなみに、私はちんこで謎かけはしたことないが、ちんこに炭酸水をかけたことがあります。「飲み物を粗末にするな」というお叱りが一部からきました。

話が紺野ぶるまに逸れたので、Aマッソに戻すが、Aマッソには「見た目」という武器がない。そのことをゴッドタンの「腐り芸人セラピー」という若手がハライチ岩井らに悩みを相談するコーナーでも「イケメンが出てきた時、芸人は狂喜乱舞を求められる」「自分の見た目なんか男で言ったらザブングル松尾」などと吐露していた。キレた発想のネタ、で売れるのは難しいようだ(2回目)。

そんな彼女らの悩みを、Aマッソ自身がコントにしてしまったネタがENGEIトライアウトという番組で披露された*1進路相談室で将来の進路を「女芸人になりたい」と言った村上演じる生徒を、加納演じる進路相談の先生が止める、というネタ。その加納のセリフは「Aマッソって知ってるか?」から始まり、「あいつら(Aマッソ)嫌いやねん、見方わからんやん」、「(女芸人の批判に「先生は考えが古いんです!」と怒る生徒に対して)古くて結構!これが世論じゃ!」、「女芸人が最近売れやすくなったなんてあれ嘘やぞ!テンプレートが蔓延してるだけじゃ!」そして、オチは「先生、どうしたら女芸人になれますか?」「知らん。太れば?」

…いわゆる「自虐」ネタかと思いきや、見た目だけで売れていく女芸人を批判するネタ、にも見えるし、ブスだからとTVに出しまくるテレビマンの批判にも見えるし、はたまたブスいじりで笑い、ブスいじりの需要を作る一般視聴者の批判にも見える。「女芸人のブスいじり批判」というのはブスを嘲笑することを批判するフェミニストの主張と噛み合っている、が、その主張は単純にブス発進で売れた芸人が多すぎるしそろそろ飽きたという俺の主張とは似て非なるものである。そしてどちらの主張に寄り添って作ったネタなのか?それはAマッソ本人のみぞ知るわけだが……………。

ここでAマッソ加納が最近連載開始したコラムが出て来る。TVに出れずともインターネットで動画(ネットTVやYoutube)なりコラムなり出して収入が出る仕組みがあり、TVと違って枠が理論上無限なのは現代が芸人に優しい部分だ。

第2回「こいつの足くさいから洗ってんねんー!」|何言うてんねん|webちくま http://www.webchikuma.jp/articles/-/1388

このコラムは一見すると、自分の兄のことを書き綴っただけのコラムに見える…が、最後から2番目の段落で自身の主張が唯一出て来る。

 コントで迷う事がある。医者を演じることはつまり、女医を演じることになってしまう。意味合いが大きく変わってくるのだが、女が演じるのだから当然だ。そんな当たり前を、うまく咀嚼できない。私はコントで、聴診器を使って遊びたかっただけだ。私はコントで、友達の足を洗いたいだけなのだ。

女性が医者を演じる→女医役になる→意味合いが「男性の医者役」から大きくかけ離れる。この意味のかけ離れは男性の医者はAVで主演にならないが女医はAVで主演になる、ということでもある気がする。女医と男医のイメージの乖離。女芸人と男芸人の求められるものがかけ離れている現状。これを埋めるための活動、理論、闘いこそが「ジェンダーレス」という奴なのだろう。それは先述の「ブスいじりによる笑いの取り方の批判」とも繋がる。

が、後半を見れば、Aマッソ加納がジェンダーレスの実現に向けたフェミニズムの戦士になる気はさらさらないことがうかがえる。「私はコントで、聴診器を使って遊びたかっただけだ。私はコントで、友達の足を洗いたいだけなのだ。」ここでいう「友達の足を洗う」というのは、屈託のない男同士の会話の象徴であり、なぜかどうしても女はできないものの象徴として描かれている。Aマッソのネタはよく「こんな発想の女芸人のネタは見たことない」と賞賛される。その賞賛は半分しか当たってない。実際よく考えると男芸人でも見たことない、かなり高いオリジナリティを持ったネタのはずだ。この見方もまたジェンダーレスだ。Aマッソの憧れの芸人は笑い飯なのだという。芸風のアホな感じは確かに似ている。聴診器で遊ぶ、というネタの着想も何となく笑い飯っぽい。しかし、Aマッソは「笑い飯の女版」になることはあっても「ポスト笑い飯」になることはないのか。そこにジェンダーの壁を越える日はないのか。そんなことを考えているように、この段落から感じた。

 

自分は芸人のネタが好きだ。それは「面白いから」という単細胞な理由も当然あるが、芸人のネタを見ていると「その芸人が何を面白いと思っているか?」を筆頭に芸人の思考がわかるような気がするのだ。Aマッソの進路相談のネタは特に本人の思考を色濃く反映したネタに見えたが、それでもネタから芸人の思考を読むのは推測に過ぎない。

そこで芸人の「コラム」というものが出て来る。コラムは筆者が考え方を書き出したものなので、当然筆者の考えが色濃く出る。芸人が筆者ならばそのコラムはネタよりその芸人の考え方が色濃く出ている場、と言えるはずだ。そんなわけで芸人本人が筆者のコラムを見て、芸人の思考を読むのも自分は好きだ。芸人の思考を読むなら素人の推測なんか読むより芸人本人のコラムを見るに限る。

 

………え?この記事ですか?もちろん「素人の推測」ですよ。

(おしまい)

 

 

*1:別の番組だとフル尺版があったけど、フル尺版よりこっちのがメッセージが直球で伝わるはずなので…